承継コラム vol.29

「中国古典・人間学(大学③)」

 

わが身を修めるためには、自分の「心を正す」ことが大切と「大学」で述べています。それでは「心を正す」ということは、どのようなことを言うのでしょうか。腹の立つことがあると心が角張って身の正常を保つことはできませんし、同様に恐れおののくことがあると心が縮んで身の正しさを保つことはできません。また楽しく好き心があると心が浮いて身の正しさを保つことはできませんし、更には悲しい心配事があると心が沈んで身の正しさを保つことはできません。これが人間の常住の性質と言ってよいでしょう。

「心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず、此れを、身を修むるはその心を正すに在り」と例を挙げながら、心をしっかりと正常に落ち着き保つことの必要性を強調しています。人間には、六根ろくこんという六つの感覚器官(眼げん・耳じ・鼻び・舌ぜつ・身しん・意い)があります。眼の対象は色や形、耳の対象は音や声、鼻の対象は匂い、舌の対象は味、皮膚(身)の対象は接触ですが、しかし意(心)の対象は無限大といってもよいでしょう。勤務時間中に家族のことやプライベートのことを思うことができますし、都会の雑踏の中で故郷の山河を想うこともできます。将来の夢に向かって意志を働かすこともできます。このように「意」の特徴は無限な想像力と意志力にあります。

対象をしっかりと受け止め、感覚器官たる身と心とが離れない統合された状態とするのは「意志」の力です。意志がその対象に注入されなければ、「視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず」状態に陥ってしまいます。常時このようでは人間の正常な発展成長はありえません。事をなすときは、意志を働かせて、そのことに集中しなければなりません。朱子の「精神一到何事か成らざらん」という言葉は、精神を集中して努力すれば何事も成就できないものはないという意味で、身と心が一体統合集中して事に当たることの大切さを言っています。また仏教の「禅定」は、そういった精神が集中された純粋経験の状態と言えるでしょう。

このように「心を正す」とは、雑事にこだわらず、心を一点に止めて集中し、誠実に行う姿勢と解釈できます。一に止と書いて「正」という字が成り立ちます。物事に心を込めて集中するということは、「正」しい姿勢につながるということを理解し、常に正しい心身の姿勢にて仕事の成果を上げていきたいものです。 


以上
創新事業承継プロジェクトチーム 代表 公認会計士・税理士 高良 明

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